【第288回】間室道子の本棚『ハロルド・フライのまさかの旅立ち』レイチェル・ジョイス 亀井よし子訳/講談社文庫
「元祖カリスマ書店員」として知られ、雑誌やTVなどさまざまなメディアで本をおススメする、代官山 蔦屋書店 文学担当コンシェルジュ・間室道子。
本連載では、当店きっての人気コンシェルジュである彼女の、頭の中にある"本棚"を覗きます。
本人のコメントと共にお楽しみください。
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『ハロルド・フライのまさかの旅立ち』
レイチェル・ジョイス 亀井よし子訳/講談社文庫
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これは一歩踏み出すことをしてこなかった男の物語である。
ハロルド・フライ。現在65歳。不幸な少年時代のために家族の愛を知らない。若き頃は、健康な成人男子に備わる欲望、あるいはまっすぐさのおかげで、ダンスホールにいたモーリーンに声をかけ、結婚することができた。でも息子デイヴィッドが生まれても、ポケットに両手をつっこんだまま抱こうとしない。怖かったのである。
その後小学校の初日にも、親子で行った海でも、休暇村でも、大学合格の時も、あきらかに父親の手や言葉を必要としている息子の前で、ハロルドは固まったり紋切り型を言ったりするだけ。大人から励ましやいつくしみを向けられてこなかった人間は、子供の心に踏みだすやり方を知らず、勇気もないのだ。デイヴィッドは父を冷笑するようになる。この傾向は「人生息子一筋」となったモーリーンにもおよび、数十年かけて夫婦に培われたのは沈黙と距離。
そんなハロルドはある日、手紙を受け取る。相手の住所ははるか北の海の町、ベリック・アポン・ツイード。差し出し人はなつかしすぎるひと。どうして今まで忘れていたのか、と思うくらい重要な存在だ。でもだからこそ、その人物の喪失を頭から追いやっていたんだろう。
彼は返事を書き、近所のポストに投函しようとしてなぜかやめ、その先のポストをめざす。そしてまた次の。結局どんどん歩いていく。手には相手の住所を書いた封筒がある。直接会いに行こう。ここから、彼の1000キロに及ぶ徒歩の旅が始まるのである!
なにせ郵便を出すだけのつもりだったので、格好は普段着、履いているのはデッキシューズ。ほぼ手ぶらで、財布とカードはあるが携帯電話は家に置いてきた。でも彼は歩みをやめない。車や列車もつかわない。なぜなら、なにか小腹を満たすものを買おうと立ち寄ったガソリンスタンドにいた娘さんの言葉で、一種の天啓を受けたから。つまり、自分が歩いている限り、相手はだいじょうぶ。
ロードノベルは行く先々での出会いが面白さの鍵になるけど、ええ人だらけでは「御都合主義&似たようなほっこり話は掃いて捨てるほどある!」となるし、エキセントリックな人ばかりだと「事件を起こすためだけに登場させたでしょー」と読者にミエミエ。著者のレイチェル・ジョイスはこのへんが絶妙。善だけの人も騒動だけの人も出て来ない。
たとえば最初に寄ったホテルの朝食レストランで、ほがらかウェイトレスおしゃべりのために、ハロルドの「歩いてベリック・アポン・ツイードまで行く」がお客たちに知れ渡る。そのあと彼女と、老女二人、そして名刺をくれたビジネスマンが見送りに出て来た。でも、さあ出発、というまさにその時、ハロルドの背後で名刺男が鼻を鳴らし、たぶんしかめ面もしてみせた。そのあと食堂から聞こえてきた爆笑、クスクス笑い。
励ましとあざけり、どちらがビジネスマンや皆の本性なのかはわからない。だってハロルドを前に、どちらかだけになる人間って、いないと思うから。
1000キロって、調べたら東京駅から山口の防府市くらいまでだった。「今から山口県まで歩くんです」と丸の内の食堂で老人に言われたら、誰だって無事を祈るとともに目の玉ひん剝きたくもなるだろう。作者のこういう人間まるごと感がいい。エピソードなしで、ほんの一行だけ出てくる人にも味がある。私の心に残っているのは「ミサの中にもツイッターをしてしまうお坊さん」。
一方電話を掛けて来たハロルドから、今どこにいるかと、これから何をするつもりなのかを知らされたモーリーンは憤懣やるかたない。誘われたとて絶対行かないし、彼に家にいてほしいわけじゃない。でも置いて行かれた感じが嫌。こんな女心に「わかる!」となる人は多いはず!!
というわけで彼女ははるか遠くにいる息子に大珍事を報告する。彼はこちらが望んでいたことを言いもするし、怖くて口に出せなかったことをぱしっと告げたりもする。そしてこのデイヴィッドにも、秘密があった・・・。
物語はやがて、いかにも現代的な展開になる。「歩いて1000キロ先をめざす老人」。これが放っておかれるわけがないのだ。そんな中、ハロルドは右足を前に出し、次に左足を前に出し、を愚直にくりかえす。旅は今まで踏み出さずにいた数々への贖罪のようにも見えてくる。歩くことは祈りだ。そしてさらなる揺さぶりがハロルドと読者を待っている。
これは、還暦過ぎて踏み出し、たどり着くべきところに到った男の物語。
ハロルド・フライ。現在65歳。不幸な少年時代のために家族の愛を知らない。若き頃は、健康な成人男子に備わる欲望、あるいはまっすぐさのおかげで、ダンスホールにいたモーリーンに声をかけ、結婚することができた。でも息子デイヴィッドが生まれても、ポケットに両手をつっこんだまま抱こうとしない。怖かったのである。
その後小学校の初日にも、親子で行った海でも、休暇村でも、大学合格の時も、あきらかに父親の手や言葉を必要としている息子の前で、ハロルドは固まったり紋切り型を言ったりするだけ。大人から励ましやいつくしみを向けられてこなかった人間は、子供の心に踏みだすやり方を知らず、勇気もないのだ。デイヴィッドは父を冷笑するようになる。この傾向は「人生息子一筋」となったモーリーンにもおよび、数十年かけて夫婦に培われたのは沈黙と距離。
そんなハロルドはある日、手紙を受け取る。相手の住所ははるか北の海の町、ベリック・アポン・ツイード。差し出し人はなつかしすぎるひと。どうして今まで忘れていたのか、と思うくらい重要な存在だ。でもだからこそ、その人物の喪失を頭から追いやっていたんだろう。
彼は返事を書き、近所のポストに投函しようとしてなぜかやめ、その先のポストをめざす。そしてまた次の。結局どんどん歩いていく。手には相手の住所を書いた封筒がある。直接会いに行こう。ここから、彼の1000キロに及ぶ徒歩の旅が始まるのである!
なにせ郵便を出すだけのつもりだったので、格好は普段着、履いているのはデッキシューズ。ほぼ手ぶらで、財布とカードはあるが携帯電話は家に置いてきた。でも彼は歩みをやめない。車や列車もつかわない。なぜなら、なにか小腹を満たすものを買おうと立ち寄ったガソリンスタンドにいた娘さんの言葉で、一種の天啓を受けたから。つまり、自分が歩いている限り、相手はだいじょうぶ。
ロードノベルは行く先々での出会いが面白さの鍵になるけど、ええ人だらけでは「御都合主義&似たようなほっこり話は掃いて捨てるほどある!」となるし、エキセントリックな人ばかりだと「事件を起こすためだけに登場させたでしょー」と読者にミエミエ。著者のレイチェル・ジョイスはこのへんが絶妙。善だけの人も騒動だけの人も出て来ない。
たとえば最初に寄ったホテルの朝食レストランで、ほがらかウェイトレスおしゃべりのために、ハロルドの「歩いてベリック・アポン・ツイードまで行く」がお客たちに知れ渡る。そのあと彼女と、老女二人、そして名刺をくれたビジネスマンが見送りに出て来た。でも、さあ出発、というまさにその時、ハロルドの背後で名刺男が鼻を鳴らし、たぶんしかめ面もしてみせた。そのあと食堂から聞こえてきた爆笑、クスクス笑い。
励ましとあざけり、どちらがビジネスマンや皆の本性なのかはわからない。だってハロルドを前に、どちらかだけになる人間って、いないと思うから。
1000キロって、調べたら東京駅から山口の防府市くらいまでだった。「今から山口県まで歩くんです」と丸の内の食堂で老人に言われたら、誰だって無事を祈るとともに目の玉ひん剝きたくもなるだろう。作者のこういう人間まるごと感がいい。エピソードなしで、ほんの一行だけ出てくる人にも味がある。私の心に残っているのは「ミサの中にもツイッターをしてしまうお坊さん」。
一方電話を掛けて来たハロルドから、今どこにいるかと、これから何をするつもりなのかを知らされたモーリーンは憤懣やるかたない。誘われたとて絶対行かないし、彼に家にいてほしいわけじゃない。でも置いて行かれた感じが嫌。こんな女心に「わかる!」となる人は多いはず!!
というわけで彼女ははるか遠くにいる息子に大珍事を報告する。彼はこちらが望んでいたことを言いもするし、怖くて口に出せなかったことをぱしっと告げたりもする。そしてこのデイヴィッドにも、秘密があった・・・。
物語はやがて、いかにも現代的な展開になる。「歩いて1000キロ先をめざす老人」。これが放っておかれるわけがないのだ。そんな中、ハロルドは右足を前に出し、次に左足を前に出し、を愚直にくりかえす。旅は今まで踏み出さずにいた数々への贖罪のようにも見えてくる。歩くことは祈りだ。そしてさらなる揺さぶりがハロルドと読者を待っている。
これは、還暦過ぎて踏み出し、たどり着くべきところに到った男の物語。
代官山 蔦屋書店 文学担当コンシェルジュ
間 室 道 子
【プロフィール】
ラジオ、TVなどさまざまなメディアで本をおススメする「元祖カリスマ書店員」。雑誌『Precious』、『Fino』に連載を持つ。書評家としても活動中で、文庫解説に『蒼ざめた馬』(アガサ・クリスティー/ハヤカワクリスティー文庫)、『母性』(湊かなえ/新潮文庫)、『蛇行する月』(桜木紫乃/双葉文庫)、『スタフ staph』(道尾秀介/文春文庫)などがある。